Ilish Mist

 パルメキア大陸の南に位置するとはいえ、デストニアの冬も寒い。遥か北にあるフラガルド領ほどでは無いが、暖炉に薪を絶やさないことに人々が気を配る程度には寒くなる。とりわけ、港町となると海からの風も手伝って満潮のときは暖炉の前を離れるのが惜しくなるほどの寒さになるのだ。
 そんな晩、メディオンは寝付かれずにいた。昼間の稽古や講議で身体は疲れているのだが、どうしても目を閉じたまま眠りに落ちるのを待てないでいた。普段なら就寝の挨拶に来たキャンベルとキスを交わしてから、彼が扉を開けるのを見届ける頃には既に夢の中だというのに。ごろり、と大きく寝返りを打ってメディオンは眉間に皺を寄せた。理由はわかっている。それもこれも全て、寒さのせいなのだ。
 寝台に入る前にメイドがくべていった薪は、まだ燃え尽きてはいない。上掛けも昨晩よりも軽く、暖かいものに変えてある。だがカタカタと窓を鳴らす海風は強く、隙間を縫って侵入するそれらは、確実にメディオンの体温を奪っていった。
 上掛けからはみ出てしまう頬や鼻を手で覆い、さらに手すらも冷えると上掛けの中に入れて暖める。どれだけの時間、こうして過ごしただろうか。第3王子宮は3年前まで住んでいた港町の家よりも格段に暖かいというのに、なぜこんなにも寒く感じるのだろうか。そういえば、今年の雪は早いだろうとグランタックも言っていた。例年よりも早く冬将軍が向かってきているのかもしれない。メディオンは首筋を駆け抜ける風に身体を緊張させて、そんなことをぼんやりと考えていた。だが、いつまでもこうしていても夜が明けるまで眠れない。明日もいつものように稽古や講議がある。キャンベルのことだから、どんなに寒くても上掛けをひっぺがしに来るに違いない。
 ……仕方ない。
 なけなしの勇気を振り絞って、メディオンは寝台から降りた。

 ガウンを羽織り、襟巻きを頭のてっぺんからぐるぐると捲いて口元まで覆って、完全装備でメディオンは廊下を歩いていた。向かうは第三王子宮のはずれにあるキッチン。生姜を剃ったものと砂糖を湯で溶かしたものを作ろうと、わざわざ寝室から出てきたのだ。まだ母と暮らしていた頃に、よく彼女が作ってくれたあの飲み物は、身体を芯から暖めてくれて、あれを飲むと驚くほどよく眠れたのを思い出した。寝室にも簡単なお茶ぐらいは煎れられるようにしてあるが、さすがに生姜は置いていない。そんないきさつで、寒さを押してメディオンは寝室から出たのである。ガウンを着込み、頭を襟巻きで覆い、室内履きと靴下を履いても、廊下の冷え込みは効いた。一刻も早くキッチンに辿り着こうと歩を速め、ようやっと見えて来たその場所からは、ほのかな光りが差していた。
 誰か先客がいるようだ。
 同じように温かいものを求めている者が他にいたとしてもなんら不思議はない。おそらくメイドか庭師の誰かだろう。だが、こんな格好で歩いているところを見られてしまうのは、いささかバツが悪い。足音を立てないように近付いて、そろそろとドアノブに手をかける。てのひら程度の幅だけ扉を開いて覗き込んだキッチンの中には、馴染みのある後ろ姿があった。
「なんだ、キャンベルか」
 安堵の溜め息とともにそう呟いてメディオンは扉を開けた。逆に驚かされたのはキャンベルのほうだ。
「メディオン様、こんな時間にどうしたのですか?」
「ちょっと眠れないから。……そっちこそ、そんな格好で何やってるんだい?」
 そう言ってメディオンはキャンベルの姿を頭から蹄まで舐めるように見つめた。少し瞳を伏せて、眉間に皺を寄せて。まるでどこかで寝てきたかのような少々乱れた髪の毛と、きちんと装飾が施されたマントが不釣り合いだ。近付いてみるとほのかに香水の香りまでする。一体彼がどこで何をしてきたのか、まだ少年と言える年頃のメディオンにも、はっきり理解できた。キャンベルは手に持っていたやかんをテーブルの上に置いてからメディオンに椅子をすすめ、何事もなかったかのように口を開く。
「街で友人と会ってきたんですよ」
「ふうん」
 こういうときのキャンベルの返事が、しらじらしいことは重々承知しているが、つい聞かずにおれない。一体どんな友人なのか聞かずともわかるし、キャンベルの年齢を考えれば、そういう友人がいても全くおかしくはない。むしろ、仮にも次期皇帝候補の一人に仕える騎士であり、女性に優しく、洒落ものであるこの男に、そういった友人の影がないほうがおかしい。だけど、そう理解していても、メディオンにとっては面白くなかった。すすめられた椅子に座り、何か嫌味でも言ってやろうかとも思ったがやめた。言ったところで自分がみじめになるだけだ。
「で、どうしてこんなとこにいるの? 寝たほうがいいんじゃない」
「ぐっすり眠れるように、暖を取ろうとしてるんですよ」
 そう言ってキャンベルは、テーブルにセットしておいたグラスに、傍らから取り出した酒を注ぎ始めた。さらに沸かしたばかりの湯を注ぎ、軽くマドラーでかき混ぜながら言葉を続ける。
「今度は私の質問にも答えていただきましょうか。眠れないからといって、わざわざなぜこんなところに?」
「お前と同じ理由だよ。何か飲もうと思って」
 目の前で旨そうに酒を飲む男の前で、まさかしょうが湯とは言えない。そもそも仮にも従者なんだから、主人の前に何もないのに、自分だけ暖まっているというのもどうかと思う。少々の不満。あるいは八つ当たり----をぐっと飲み込んで、メディオンはキャンベルが持っているマグをじっと見つめた。
「何飲んでるんだい? 僕にもよこせ」
「甘いウィスキーですよ。メディオン様にはまだお早いでしょう」
 何か別のものを作りますね。そう続けて、キャンベルは再度火の前に立った。酒入りのマグを持ったままで。メディオンとしてはその隙にキャンベルの物を奪ってしまおうと思っていただけに、見すかされていたのがわかって更にご機嫌ななめだ。
 “メディオン様にはまだお早いでしょう”。それは、明らかに自分を子ども扱いしていて、ハナっから晩酌の相手には考えられないということで。いくら剣の腕を磨いても、知識を増やしていっても、彼が自分を見る目は永遠に変わらないような、そんな気がした。
 身体だけではなく、心まで冷えていくような。
 真夜中のキッチンで、鍋の中のものが煮える音だけが響く。その様子を見つめて、こちらを向いてくれはしない騎士の後ろ姿を見ていて、メディオンの胸に言い様のない感情が込み上げていった。
 もう子どもじゃない。大人ではないけれども、子どもじゃない。
 どうしたらそれをわかってもらえるんだろう?
 ふいに涙が込み上げてきて、メディオンはまぶたを抑えた。こんなとこ、見られたくない。目を閉じてごしごしと目尻を擦っていると、コトンという音と甘い香りが机の上から漂ってきた。まだ涙を溜めた目をゆっくりと開けて見ると、そこにはキャンベルの大きな手と、それに包まれた白いマグがあった。
「できましたよ」
 座っているメディオンと視線を合わせて、キャンベルはそっと身体を降ろす。メディオンは何も言わずに、差し出されたそのマグを受け取った。温められたミルクだが、色は乳白色ではなく、ほんの少しベージュがかかっている。香りもただ甘いだけではなく……。
 一口だけ飲んでみる。温かい。
「少しだけ、秘密を仕込んであります。心地よく眠れるように」
 そう言ってキャンベルが差し出したものは、茶色い液体が入った瓶だった。アイリッシュ・ミストと書かれたその瓶の蓋を開けて、キャンベルはそのまま飲んだ。そして顔をメディオンに近付けて、はあっと息を吐く。
「臭いよ」
 笑いながら、メディオンはキャンベルの口をふさいだ。くすくすと小さな笑い声がキッチンに響く。甘い蜂蜜とハーブの香り、それにウィスキーのほろ苦さ。それはまだ大人になれなくて、でも子どもに戻れない、そんな年若い主人によく似合う。
 ほんの少しのアルコールを身体に纏い、メディオンは寝床へと戻った。少しだけ大人になったような気がする夜。凍えそうな寒さも、その誇りさえあればもう越えられそうな気がした。


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